トーベ・ヤンソン「彫刻家の娘」初訳 あとがきより

トーベ・ヤンソン「彫刻家の娘」が、香山彬子さんによる初訳で出版されたのは昭和48年(1973年)のこと。

すでに山室静訳で、1968年に『トーベ・ヤンソン全集』や『ムーミン』シリーズは出版されていましたが、「彫刻家の娘」はトーベが香山さんに語ったように、雰囲気をとらえるのが、たいへんむずかしい翻訳だったと思います。

私は初めて読んだとき、まだ年齢がいっていなくて難解さも感じましたが、ロウソクの煌めきや静寂、潮や花やツリーの香りといった、視覚だけでない、トーベの五感、感受性が捕らえた、自然がむき出しになっている世界に素直に驚いたのです。

香山さんの文庫版はすでに絶版ですが、トーベが「彫刻家の娘」という作品をとても大切にしている気持ちが伝わってきます。

訳者と会話をしているトーベは50代の後半で、あとがきのエピソードなど埋もれてしまうのは惜しいと思いましたので、一部を掲載してみます。


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彫刻家の娘 トウベ・ヤンソン 香山彬子訳 
 

1973年 香山彬子訳 「あとがき」より

この『彫刻家の娘』は、まるで可愛い小さな少女が、私に愛しまれることを少しも疑うことなく、信頼しきったあどけない瞳を輝かせて、或る日、突然に、思いもよらないでいた私の手元に、ひっそりと寄り添うように姿を現わした。・・・


彼女(トーベ・ヤンソン)は私からの感動の手紙を受け取り、出来れば私が翻訳をしたいと思っている意思を知ったとき、二年以上も日本で翻訳出版されずに眠っていたこの作品が、日本で漸く(ようやく)生命を吹き返すことが出来る日が来たことを、心から本当に喜んだ。

私がスウェーデン語の原書からでなく、英訳から日本語に翻訳することを気にすると、「アキコ、この英訳はとても素晴らしいのよ。だから、少しも気にすることはありませんよ。本当にこれは大変に素晴らしい英訳です。ですから、英訳からで少しもかまいません。」
と言って下さった。それからまた、いろいろと詳しく説明をして下さった。

 
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「この『彫刻家の娘』は、非常に難しい作品です。だから、スウェーデン語や英語が達者だからといって、必ず良い翻訳が出来るとは限らないと思うの。この作品は感覚的に捕らえることが大切だし、それがまた難しいのです。スウェーデン語から英訳するときも、こんなことがありました。

英訳者・キングスレイ・ハートさんは、スウェーデン語の会話も読み書きも、何不自由なく出来る方なのですけれど、それにもかかわらず、考え違いをして訳したところが沢山ありました。それで、私は訂正を三ページもびっしり書いて送らなければならなかったのです。
これで、貴女にはその意味が良く解ったでしょう!?

でも、その後、英訳は非常に良くなり、私は大変に満足しています。私の原書より素晴らしい作品になってしまった程です。確かに、この本を翻訳する仕事は大変な仕事です。

でも、アキコ、たとえ、貴女が私の英語の力より自分の英語の力が劣っていると考えているとしても、決して心配する必要はありません。私は、何と言っても、この本を訳すのに一番大切である雰囲気を捕らえて、それを言葉で表現するフィーリングを、貴女は充分に持っている人だと信じています。貴女はアーティストですからね。


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貴女は『彫刻家の娘』を翻訳する素晴らしい仕事をしようとしているのです。
急がずにゆっくり、そして、貴女がこの仕事に幸せを感じるときにだけ、おやりなさい。それから、細かいことをいちいち正確にその通り訳す必要はないのです。例えば、花のことでも、何も原書の通りにする必要はありません。

・・・・(中略)

それよりも大切なことは、この作品全体の流れの感じを捕らえて表現することを一番大切にしなくてはならないという事です。そうした意味でこの作品を翻訳するのは大変にむずかしいのです。でも、アキコ、しっかりね。」

こうして、彼女は何度も繰り返して、このような説明を私にしては少女のような仕草で私の肩を抱き寄せ、励まして下さった。そして、フィンランドの出版社から、スウェーデン語の辞書を取り寄せて、私へのプレゼントにして下さった。
私はスウェーデン語の一番最初に出版された原書を含めて、二種類のスウェーデン語版の原書を取り寄せ、新たに英訳書も何冊か手に入れた。


私は文章全体の流れを、日本語で美しく表現することに精魂を打ち込んだ。
その苦労は大変に辛かった。私はヤンソンさんがおっしゃた事にすっかり甘える気持ちにはなれなかった。この素晴らしい作品を、私が感じ取ったまま私の文学と言葉に創りあげてしまっては、私の良心が疼く。私はいろいろと気を使った。

そして、出来る限り、花の名や動物名は原書に忠実に、また人名や地名はすべてスウェーデン語のまま使用した。こうした気の遣い過ぎで、多少、文章の流れがぎこちなくなってしまったかもしれない。と、ふと寂しい気持ちもする。もっと大胆に私の文学にしてもよかったとも思う。




弟ペール・ウーロフのカバー写真

だが表紙については見事だ。

東京でヤンソンさんにお会いしたとき、私がスウェーデン語版の最初に出版された装丁が、一番気に入っていることをお話しすると、(それはこの文庫のカバーに使用されている。)彼女は愛しげにその本のデザインを手に取って、優しく眺めながら、「ええ、そう。私もこの装丁が一番すきなの。」
と、大きな声をあげ、嬉しそうに息を吸い込む仕草をした。

「アキコ、貴女もこの装丁が一番好きだと聞いて嬉しいわ。これは私の上の弟のペル・ウーロフが撮ったパパのアトリエの写真よ。そして、この女の子は彼の娘なの。この装丁こそ、この本の内容にぴったりでしょう!? ね、そう思うでしょう。」


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それから、彼女は少し寂しげに微笑んで、こう話を添えた。

「でもねえ、アキコ。日本の出版社は何でも派手なものを好むでしょう。まあ、現在は世界的に、どこの国の出版社もみんな、そういう傾向になって来たのよ。だから、私はこの頃は諦めてしまっているの。そして、出版社にまかせてしまうのよ。そんな訳ですもの・・・・この装丁を日本の出版社が使ってくれるかしらねえ?」

私はきっと使ってもらえると確信していたので、
「日本の人達の中にも、こうしたことを理解出来る人が沢山います。」
と、彼女を慰めた。

講談社の文庫出版部が、この本を出版すると決めたとき、いっぱつでこの装丁を気に入って、しかも喜んでこれを選んだことは大変に嬉しい。こうしたことは日本の出版界の誇りとして良いことだ。彼女はこの知らせを受け取ったとき、どんなに喜んだことだろう。私には彼女の少女のような笑い声が、すぐ近くに聴こえて来る・・・

島での夏の生活

彼女(トーベ・ヤンソン)の少女時代には、毎年、夏になると、両親は小さな島に住む貧しい老漁夫のカッレビィシンさんの家を借りて、そこで夏を過ごすことにしていた。そのために、カッレビィシンさんは、夏の間、自分は小さな海岸近くのヒュッテに移り住む。

その島での夏の生活は素晴らしい。

冬には、ヘルシンキの街で、凍てつく日々を過ごす。冬の街での生活は厳しいが美しい暮らしだ。そして荘厳なクリスマスがある。

こうした自然の美しい世界に恵まれた暮らしの中から、幼い彼女は鋭い感受性であらゆるものを吸収して育った。

こうした中で生れ育った彼女の芸術は、私たちには手の届かない世界がある。しかも、五十年後の今も、尚(なお)、彼女はこれに近い生活をしているのだ。静かな森と湖と入江。さわやかな空気、音楽、雪と氷と静寂、長い暗い冬、けれども、そこにはロウソクの煌めきがある。そして、夏の青い海と白い太陽と風と嵐・・・・。


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夏になると、彼女はフィンランド湾にある自分の島に行って暮らす。それがヤンソン島だ。ほとんど日没を見ない夏の一日は長い。そこで作品を書く。ときにはお母様(もう、亡くなられたが、私が島にお訪ねしたときはご健在であった。)や、親友のトゥーティッキさん達と、楽しい日々を過ごす。

弟のラルスさんや、彼の娘のソフィアが遊びに来る。それから、彼女はハマナスに似たバラの花を島の岩庭に育てる。岩庭の一部に海水が溜まって出来た小さなプールで、揺らめき靡く(なびく)淡緑色(うすみどり)色の海藻の中を人魚のように泳ぎ戯れながら水浴びをする。

時々サウナを焚く。そして、ゆっくり、身体を寛がせ(くつろがせ)、青くすき通った冷たい海に裸で飛び込んで泳ぎ廻る。

彼女は海と風と海鳥たちに囲まれながら、彼女の父親がそうであったように、嵐に歓喜し、荒波に和して大きなブラボーを叫ぶ。

夏の太陽に抱かれ、岩庭を少女のように裸足で飛び廻る。岩庭の崖で卵を孵す(かえす)海鳥たちと、おしゃべりする。それから、ときには幻想の生き物たちと戯れる。そして作品を書き続ける。

また、彼女はときどき、モーターボートを走らせ、遠くの島へ散歩に出る。人が住んでいない、ヒースが這う(はう)石ころばかりの島にも遊びに行く。その島で見る海と空は特に美しい。雲と光と影と、吹きまくる潮風と海鳴り、それから海鳥たちの歌。そこにはムーミンたちや、可愛い幻想の少女たちが小走りに通り過ぎていく。・・・


彫刻家の娘

彫刻家の娘

*こちらは英訳版
Sculptor's Daughter: A Childhood Memoir

Sculptor's Daughter: A Childhood Memoir

  • 作者: Tove Jansson
  • 出版社/メーカー: Sort of Books
  • 発売日: 2015/04/02
  • メディア: ペーパーバック
 




*彫刻家の娘 トウベ・ヤンソン 香山彬子訳(カヤマアキコ)
*発行 昭和48年  
*カバー写真 ベル・ウーロフ・ヤンソン

*紹介文
一連のムーミン童話で、いまや「現代の神話の創造者」とその天才を評価されるトウベ・ヤンソン。彼女の遠い幼い日の想い、魂の叫びと幻想のアラベスク ― 静かな森と湖と入江、雪と氷の静寂、バラライカの音色、サウナ焚、ロウソク
の煌き・・・。

彫刻家の父、画家の母に類い稀な才能を受継ぎ、時に奔放に激しく、時に優しく、海の波に、嵐に、バラになる。まさにムーミンの世界の凝縮であり、待望の初訳。

 
merimaa88-tove.hateblo.jp