村上春樹「息子と紙袋を抱えて、サインに応じたヒルトンの優しい目」 

「有名人のサインは持っていますか?」

1月15日にスタートした、村上春樹期間限定サイト『村上さんのところ』。

「有名人のサインは持っていますか?」という読者から村上さんへの質問に、村上さんのリプライは次のような内容でした。

『知る人ぞ知る、ヤクルト・スワローズのデーブ・ヒルトン選手(たまたま僕に小説を書く霊感を与えてくれたような存在)に、サインをもらったことがあります。広尾の明治屋の前でばったり出会って「サインをくれますか?」と言ったら、「いいよ」とサインしてくれました。
 1978年の夏、まだ小説家になる前、台所のテーブルに向かって『風の歌を聴け』をこつこつと書いていたころのことです。なんだか不思議な縁があるみたいですね。』

1980年のナンバー誌

 村上さんのエッセイ「息子と紙袋を抱えて、サインに応じたヒルトンの優しい目」が初掲載されたのは、ヒルトンからサインをもらった2年後、1980年の『ナンバー』誌。

その後、「デイヴ・ヒルトンのシーズン」とタイトルを変えて、単行本に収録されています。



1978年の週間ベースボール

 デイブ・ヒルトンは、1978年、その年のユマ・キャンプで、ヤクルトスワローズにテスト入団。スタンスを広く取った独特のしゃがみ込むようなバッティングの構えと、凡ゴロでも凡フライでも全力失踪、時には一塁にヘッドスライディングを試みるプレースタイルで、その年のヤクルトの球団創設以来の初優勝、日本一に貢献した選手でした。



 『週刊ベースボール』に掲載されていた、ヒルトン一家のグラビア写真は今も手元に残っています。村上さんのリプライやエッセイとシンクロするような光景です。

スーパー・マーケットの紙袋(たぶん、広尾の明治屋)と息子を抱えて、村上春樹のサインに応じた、ちょうどその頃のヒルトン一家の雰囲気がそのまま伝わってくる写真です。



神宮球場のオープニング・ゲーム。

 1978年4月1日。快晴。神宮球場のオープニング・ゲーム。村上氏は、外野席の芝生に寝そべりながらビールを飲んでいた。ヒルトンが先頭バッターで打席に入った。独特のしゃがみ込むようなフォームで。

「それは見事なヒットだった。ボールは左中間をまっぷたつに裂き、ギャレットと山本浩二がボールに追いついた時には彼は二塁ベースの上に立っていた」(1980年「ナンバー」より)

「僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れわたった空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。」(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』)



週間ベースボール 1978年 


 日本シリーズを目前にした10月始めの日曜日、初秋の細い雨が舗道をわずかに濡らす夕方、村上氏は、スーパーマーケットを出たときに、小さな子供をつれたアメリカ人夫婦がタクシーをつかまえようとしてるのに出会った。「その小柄なアメリカ人は息子を肩の上にのせ、左手にスーパーマーケットの紙袋をかかえていた。」

 子供は傍の母親に笑いかけ、彼女はヒルトンに微笑みかけ、ヒルトンは笑いながら淡いブルーの瞳で息子を見上げていた。「何かが僕の心を打った。あのオープニングゲームのバッターボックスで僕が感じたオーラがやはりそこにあった。」

「彼らは質素ななりをした平凡なアメリカ人の一家ではあったけど、〜まるで小雨の降る日曜の夕暮れの人ごみに雲間からさしこんだ一筋の光のように、彼らの微笑みはどこまでも明るく輝いていた。あるいは僕の心を打ったのは、そんな輝きの中心にある痛々しいまでの幸福感であったのかもしれない。」(1980年「ナンバー」より)

  

フィッツジェラルドとシンクロするような、、

 「しかし結局僕にとってのデイブヒルトンは、ほころびたセーターを着てスーパー・マーケットの紙袋をかかえた、一人の貧しげなアメリカ人である」

 「僕がいま語ろうとしているのは彼の物語である。いや、物語というよりは、かけらとでも言った方が近いかもしれない。シーズンという鋭利な時によって切り取られてしまった、一人の青年の魂のかけらだ。」

「‘78年のシーズンが終わり、何もかもが変わっていった。アリゾナからやってきた僕と同い年の優しい目をした青年は、シーズンという名の時の流砂の中に消えてしまった。」

「これがその時の彼のサインだ。デイブ・ヒルトン・・・少し字がぶれているのは仕方ないな、君は息子と紙袋を抱え、タクシーをつかまえようとしていたんだもの」(1980年「ナンバー」より)


翌年、出版された村上さんの翻訳「マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集 」(1981年/中央公論社) とシンクロするようなエッセイに私には思えたのですが。


追伸
「ところでこの前、アメリカ人の読者の方が、デイブ・ヒルトンがサンディエゴ・パドレスにいた当時の野球カードを送ってくれました。 とても貴重なものです。彼は今ではテキサスで少年野球の指導者になっているようですよ。村上春樹 拝 」(村上さんのところ より)


「デイヴ・ヒルトンのシーズン」は「村上春樹雑文集」に収録されています。

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集

  • 作者: 村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/01/31
  • メディア: 単行本